はじめにお詫びと前提と

身辺にこれといって差し迫った心配事がないとき、或いはある苦痛の中にいても外界からの情報を閉ざして思考に耽るとき
つまり考え事が捗るとき、哲学的な問題や倫理について覚束なく考えることがよくある

考えて出た結論、その時点での私が見つけた「それらしい答え」について、誰かに聞かせてみたり、論じ合ったりしてみたくなる
だから考えをまとめるため、メモするのだがその書き出し、結論を書くとき

無闇矢鱈に「我々」だとか「私たち」と、つい表現してしまうと「いや待てよ 『私』は分かる、でも『たち』ってのは一体何だ」と思う
考えに正確を期そうと注意するほど、こういった前提に引っかかる

私と多少姿形が似ていて、どうやら表面上は同じ種族であるとされる他の人間を、少なくとも日本から一度も出たことのない極東の島国の片隅で微かに生きている私が人間を一括りに語るなどもう本当に浅慮で厚顔な行いだと思う

しかし私に確かなことなんて何が解るだろう
個人に認識できる確かなことは極々限られていることは過去の哲学者の説に何ら異論は無い
私もその例に漏れず、どころか人並みの思考もできるか怪しい私が、こともあろうに『私たち』『我々』などと一括りに語りはじめることは本当に恥知らずの愚考だと認識しているが、私の考えを表現する際、無闇に主語を大きく語ってしまっても、それは前述の矮小な個人から見て把握している範囲のものと認めてほしい
それを踏まえた上で便宜上『私たち』『我々』『世界』だの『時代』だのと測り知りようも無いものについて断言しているものを、あくまで一個人の考えだと、どうかおおめにみてほしい

というはなし