気持ちに力は無い



被害者の気持ちを考えろ

同じ立場になったら同じことが言えるのか

とかよく耳に目にするけど
そういう人達は自分が他人の気持ちを真に理解できると思ってんのかな
もしできるのなら加害者の気持ちも理解できるはずだよな

数値化できない、目に見えない感情は何かを測る基準には成らないんだよ
感情で物事決めたらとんでもないことになるの分からないのかな
だから実害で測るしか方法は無いんだよ
もちろん大前提として加害は悪い事で許されるべきではないし、思いやりは大事だよ

人の気持ちに寄り添えとか配慮とか言うが、他人の心が自分に理解できるという思い込みの傲慢さになんで気付かないんだろう

そもそも他人の気持ちを分かったように思うことを失礼だと思わないんだろうか

自分がやられたら嫌なことは他人にするな
話せば分かる
家族だから分かり合える
って教育がそもそもの間違いで危険な思想だよ

他人とは絶対に分かり合えない

という大前提を自覚するべきだと思うんだよ

もちろん思いやりや気遣いの精神は善いものだけど、そこに力を持たせてはいけないんだよ

強制力をもった時点でそれは侵害だし暴力になり得る

家族だろうが恋人だろうが友達だろうが個人であって、他人の性質は常にある

自分の中だけで他人を思うこと、思いを推し量ることはしてもいいが

たとえ善意の行動でも他人に押し付けるべきではない

気持ちは見えないし確実に伝わることは無い

何かから受ける喜びも苦しみも人の数だけあって

それはその人の中にしか無いし、誰かに伝えることもできない

物事から何かを感じ、他人と共有できたと思うことがあっても、
それは共感であり、同じ思いが伝わった訳ではない
何にどれだけ共感するかは人それぞれであり、人の数だけ感じ方があるのは当然である
もちろん何も感じない人だっている
それが個性であるはず

そこに何かを感じるべきという力が加われば、それは個人の自由の侵害であり人権の侵害であり暴力でしょう

と思うこの頃

はじめにお詫びと前提と

身辺にこれといって差し迫った心配事がないとき、或いはある苦痛の中にいても外界からの情報を閉ざして思考に耽るとき
つまり考え事が捗るとき、哲学的な問題や倫理について覚束なく考えることがよくある

考えて出た結論、その時点での私が見つけた「それらしい答え」について、誰かに聞かせてみたり、論じ合ったりしてみたくなる
だから考えをまとめるため、メモするのだがその書き出し、結論を書くとき

無闇矢鱈に「我々」だとか「私たち」と、つい表現してしまうと「いや待てよ 『私』は分かる、でも『たち』ってのは一体何だ」と思う
考えに正確を期そうと注意するほど、こういった前提に引っかかる

私と多少姿形が似ていて、どうやら表面上は同じ種族であるとされる他の人間を、少なくとも日本から一度も出たことのない極東の島国の片隅で微かに生きている私が人間を一括りに語るなどもう本当に浅慮で厚顔な行いだと思う

しかし私に確かなことなんて何が解るだろう
個人に認識できる確かなことは極々限られていることは過去の哲学者の説に何ら異論は無い
私もその例に漏れず、どころか人並みの思考もできるか怪しい私が、こともあろうに『私たち』『我々』などと一括りに語りはじめることは本当に恥知らずの愚考だと認識しているが、私の考えを表現する際、無闇に主語を大きく語ってしまっても、それは前述の矮小な個人から見て把握している範囲のものと認めてほしい
それを踏まえた上で便宜上『私たち』『我々』『世界』だの『時代』だのと測り知りようも無いものについて断言しているものを、あくまで一個人の考えだと、どうかおおめにみてほしい

というはなし